看護部本日モ反省ノ色ナシ

看護師を中心に医療界の変なエピソードを話していきます

私は看護師をしておりますが まあおよそ一般社会では通用しないことがまかり通る それが看護師の世界です そんな看護師のエピソードとともに 医療界(病院)の変なことも話していきたいと思います

貴重な経験・新潟県中越地震

2004年10月23日、

新潟県中越地震が発生しました。

 

この時私は、

兵庫医科大学病院に、

勤めていました。

 

以前は、

 

「アルバイト」

 

と書きましたが、

正確には、

正職員の試用期間でした。

 

最初、

重症部門を希望して、

ICUに配属されましたが、

そこは当時、

 

兵庫医科大学病院イチ最悪の部署」

 

と言われるところでした。

 

兵庫医科大学病院の、

悪評を書くのが目的ではないので、

詳細は省略します。

 

今は、

きっと改善されていることと思います。

 

そこに馴染むことができず、

ICUに籍を置いたまま、

救命救急センターに行かせてもらいましたが、

そこも、

若い看護師が、

 

「鼻高々」

 

で働いていて、

やはり馴染めませんでした。

 

今考えたら、

私の我慢が足りなかったのもあったでしょうが、

看護師は、

過去の経歴をキャリアとして認めてもらえず、

新しい職場に行ったら、

 

「イチからスタート」

 

ということを、

身に染みて感じさせさられました。

 

この経験は、

近畿中央病院に就職した時に、

活かされました。

 

次に行ったのは、

人工透析室でした。

 

ここは、

スタッフが優しかったので、

やっと居場所を与えられたような、

気持ちになっていました。

 

透析室は、

月~土で稼働しています。

 

土曜日に勤務すると、

代休が与えられます。

 

2004年10月25日は、

月曜日でしたが、

私は代休で休みでした。

 

家で寝ていると、

電話がかかってきました。

 

看護部長か、

副看護部長からでした。

 

新潟県中越地震の発生に伴い、

救護班を編成して、

新潟に向かうことになったが、

看護師の手配が、

私しかできないから、

是非とも行ってほしい、

というものでした。

 

私は、

二つ返事で承諾して、

行くことにしました。

 

災害医療は、

未経験でしたが、

自分自身にとって、

良い経験になると、

思ったからです。

 

翌10月26日、

兵庫医科大学病院から、

病院が所有するドクターカーに乗って、

新潟県長岡に向かいました。

 

私の他に、

救命救急センターの医師1名、

薬剤師1名、

事務方1名、

ドクターカーのドライバー1名が、

そのメンバーでした。

 

長岡に向かいましたが、

近づくにつれて、

道路に亀裂が入っているなど、

地震の影響が感じられるようになりました。

 

長岡市では、

ベースとして、

長岡市の保健センターを、

使わせてもらうことになっていました。

 

到着し、

長岡市の職員と会談したあと、

早速救護所のひとつに向かい、

診療を行いました。

 

その日は、

2~3ヶ所ほどまわり、

ベースに戻りました。

 

食事は、

自分たちで準備する必要がありましたが、

長岡駅前のスーパーに行くと、

普通に営業していて、

ちょっとびっくりしました。

 

その年は、

台風の影響だったか、

関西では野菜が高騰していましたが、

そのスーパーでは、

安く売られていました。

 

「ここで買ってかえろうか」

 

と、

みんなで言ったものです。

 

その日の夜は、

同じ建物の2階にベースを張っていた、

和歌山の日赤のチームと、

情報交換を行いました。

 

向こうは、

災害医療のプロなので、

非常に有意義な時間となりました。

 

翌日は、

都市部よりも、

農村部に医療が行き届いていないとのことで、

そういうところを回ることになりました。

 

ある町に行くと、

古い一般家屋のような公民館が、

救護所として使われていました。

 

そこで、

診察を行っていた時に、

かなり強い余震が起こりました。

 

そこには、

高齢の女性3人が、

診察ならびに診察待ちをしていました。

 

連れて逃げようと思いましたが、

3人ともかなり体格が良く、

とても1人で運ぶことは、

できそうにありませんでした。

 

そんなことを考えていると、

外から、

 

「置いて逃げろ」

 

という声がしました。

 

その声で、

私は我に返り、

3人を置いて、

外に逃げました。

 

余震は、

すぐにおさまりましたが、

それ以降、

診察は、

ドクターカーで、

行うことにしました。

 

しかし、

何もなかったからよかったですが、

もし3人を置いて逃げて、

建物が倒壊していたらと思うと、

怖くなりました。

 

ただ、

災害の現場では、

自分の身は、

自分で守ることが大切なのです。

 

自分の身の安全を確保してこそ、

他人の命が守れるのです。

 

これも、

この時に学んだことです。

 

結局、

持参した薬剤が少なくなったことと、

我々の負担を考慮して、

2泊3日で、

この災害派遣は終了となりました。

 

一緒に行っていた医師が、

そのまま東京の学会に行くということで、

米原で降ろしたあと、

病院へと帰りました。

 

病院では、

看護部長などの、

熱烈な歓迎を受けました。

 

私は、

続けて行きたいと思っていたのですが、

次のグループから、

看護師は現地調達することになり、

行ったのは1度きりでした。

 

この派遣は、

私の看護師としての経験の中で、

忘れられないものとなりました。

 

元々興味のあった、

災害派遣に、

さらに興味が湧きました。

 

ただ、

これ以降、

災害現場に行く機会には、

恵まれていません。

 

ボランティアで行けば、

いいようなものですが、

諸事情で、

そういうわけにいかないのです。

 

近畿中央病院は、

災害時に、

ボランティアに行きたいと言っても、

行かせてくれないそうです。

 

ある、

災害時に、

派遣を希望する登録をしている、

看護師が居ました。

 

その人は、

災害医療が得意で、

ずっとそうしてきたのですが、

近畿中央病院に常勤(正職員)で入ったら、

難色を示されたそうです。

 

それで、

私が一緒に仕事をするようになった頃には、

非常勤になっていました。

 

非常勤なら、

災害ボランティアに行きたければ、

休んでもいいし、

休んだ分、

給料を出さなくてもいいからです。

 

結局この人は、

いろいろあって、

近畿中央病院を辞めました。

 

優秀な人だったので、

非常に残念です。

 

こういう、

優秀な人を、

みすみす手放してしまうのが、

近畿中央病院というところです。

 

これも、

近畿中央病院の、

 

「伝統芸」

 

です。

 

この時、

経験したことのすべて、

出会った人のすべてが、

私の看護師としての財産です。

 

そして、

一緒に行った医師から、

 

「看護師があなたでよかった」

 

と言ってもらえたのが、

とても嬉しかったです。

 

この時、

私は9年目でしたが、

病院側(看護部)は、

1~2年目の看護師を、

派遣しようとしていたそうです。

 

それを、

この医師が、

難色を示して、

私に白羽の矢が立った次第。

 

私自身は、

ちゃんと役目を果たせたか、

心配でしたが、

それまでの経験を基に、

期待された仕事を、

こなすことができたようで、

ホッとしました。

 

どんなプラスアルファの資格を持っていようが、

看護師が評価されるべきは、

看護師免許だけで、

いかに仕事ができているかで、

あるべきだと思います。

 

誰かさんのように、

大学院に行っていても、

それを活かせていないだけでなく、

仕事で何ひとつ良いところがないようでは、

ダメだと思います。

 

それを、

口で補う、

つまり、

同僚を、

 

「圧」

 

で支配するなど、

もってのほかです。

 

付いてきてほしければ、

付いて来させたければ、

仕事で、

魅せるべきです。

 

仕事で尊敬できる人なら、

黙っていても、

人はついて来ます。

 

「私たちに付いてこれる者だけ付いて来たらいい」

 

など、

もってのほかです。

「私たちに付いてこれる者だけ付いて来たらいい」は?/とんでもない勘違い野郎 片山&藤崎 - 看護部本日モ反省ノ色ナシ (hatenablog.jp)

 

話は逸れましたが、

ちなみに、

兵庫医科大学病院は、

この約半月後に退職しました。

 

いろいろあったのですが、

ここでは割愛します。